ヤマハ幼児科からジュニア科に進み、それまでヤマハで学んでいた私。
小学校3年生の時、引っ越しを機に個人教室に移籍しました。
しかし、個人教室は小学校卒業と共に離れることになりました。
個人教室を辞めてヤマハに再び入会
ピアノ個人教室を辞める
小学校卒業で、一緒に通っていた友達が教室をやめることになりました。
私も一緒に教室をやめました。
その頃、私はピアノ教室でのレッスンは嫌でしたが、音楽は好きでした。
レッスンでピアノを弾くことは嫌いだけど、ピアノを弾くことは自体は好きという、なんとも難しい状況になっていました。
教室に通わなくて済むのでようやく解放されたと思いましたが、ピアノはまだ弾きたいという思いがありました。
一方、一緒に習っていた同級生は、みんな当たり前のように小学校卒業と共にやめていきました。
同級生たちは個人教室に通っている期間が長いので、それなりの技術がついています。
楽譜も上のレベルに進んでいます。レッスンしている曲を聞いていても楽しそうです。
さらに、田舎だったので友達の使っている楽器は、中古やおさがりかもしれませんが、アップライトピアノ。憧れの生ピアノでした。
自分は、親が勝手に選んだ廃盤の強弱のつかない電子ピアノで弾いてるという状況と、恵まれている友達の環境を比べて、どうして続けないんだろうという気持ちもありました。
あまりにも未練なく辞めていく様子は、親に言われてやっていたのかな、ピアノは好きじゃないのかな、と少しがっかりした覚えがあります。
ヤマハの個人レッスンを開始
そして、ヤマハの個人レッスンをはじめました。
どうしてヤマハの個人レッスンに行き始めたのかは、思い出せません。
自分で続けたいと言ったのか、ヤマハに行きたいと言ったのか、わかりません。
ヤマハの教室は個人教室よりも離れていました。
レッスン時間も遅く、自力で通うことは難しいため親の送迎が必須でした。
毎回送迎なんて面倒だと思いますが、送ってもらえました。
やっぱりピアノが好きだと思われていたのでしょうか。
おかげでヤマハの力に気付くことになりました。
ヤマハの個人レッスンを開始
爽快だったレッスン初日
個人教室で使っていた楽譜を持って、ヤマハの先生レッスンに行きました。
教室を変えるときは、楽譜を持って行くのが通例のようです。
個人教室での屈辱が思い出されます。
持参したヤマハの教材を見て、華麗にスルーされた数年前の記憶。
今回は、どんな反応をされるのか、構えました。
持参した楽譜を見せて、直前にレッスンしていた曲と確か得意な曲?好きな曲?を弾くように言われ、弾きました。
確か、発表会で弾いた曲だったと思います。
それくらいしか、弾ける楽曲がなかったような。
そして、ヤマハの先生から言われました。
この曲集は、やらなくていいよ。
2、3年つまらないと思いながらやり続けた楽譜です。
進みが遅くて終わらない曲集。
それを、先生は「やらなくていい。」と言ってくれました。
すごく爽快でした。
気持ちがぱーっと晴れました。
しかし、「やらなくていい」というのは、曲集を否定しているわけではありません。
「私に合っていない」という指摘をしてくれたんです。
それがすごく嬉しかったです。
初対面で1度弾いただけで、そんなこともわかるんだと思いました。
あまりにもつまらなそうに弾いていたのかもしれません。
その先生と気が合っただけかもしれません。
でも、ヤマハってすごいなぁと思いました。
この経験が、ヤマハを贔屓する大きな要因だと思います(笑)。
ブルグミュラーを開始
中学生にして私はブルグミュラーをスタートしました。
小学生から個人レッスンしている人は、小学校で入っている曲集ではないでしょうか。
個人教室の同級生も、小学生で弾いていました。
かなり進捗が遅いことがわかります。レベルも低いままです。
ブルグミュラーの「アラベスク」という曲を知っていますか?
小学校の教室で弾いている子がいました。
教室で聞いて、なんてかっこいい曲なんだろうと感動しました。
当時は何の曲なのか知らなかったので、友達の弾いている曲を暗譜して家で弾いていました。
私はその小学校のときに聞いた曲を、中学生になってようやく弾くことができました。
もう、うれしくてたくさん練習しました。
そしたら、すぐにレッスンで仕上がってしまいました。
とても残念だった覚えがあります(*´з`)
情景が想像できる曲の多いブルグミュラーは好きでした。
ようやくピアノのレッスンも楽しいと思えるようになり始めました。
しかし、個人教室でバイエルやツェルニーをまじめにやっていなかったので、指の動きに苦戦することになりました。
ちゃんと曲を弾くようになってはじめて、あの時の練習はこのためか!と理解しました。もっとちゃんと練習しておけばよかったと思いました(笑)。
ブルグミュラーに続く曲集
ブルグミュラーの他に、ソナチネをやり、その後、ハノンやソナタの曲集もやりました。
ソナタをはじめたのは高校生くらいでした。
高校3年生でヤマハも退会したので、ソナタの曲は2、3曲しかできなかったと思います。
ソナチネやソナタも指の練習ですが、楽しくレッスンできました。
自分の意識も、小学校の時とは違っていたのだと思います。
ちゃんと指の練習も、何のために必要なのか理解して練習していました。
中々上達しませんでしたが。
もっと早くブルグミュラーやりたかったです。
そうすれば、バイエルやツェルニーに対するイメージもこんなに悪くなかったと思います(笑)。
ヤマハ個人レッスンの思い出
ヤマハの個人レッスンは、中学生から高校生まで続けました。
6年受けていたことになります。
年数だけ見ると結構すごい歴ですね。レベルはお察しですが。
ピアノレッスン最後の発表会
ドビュッシー「月の光」
最後の発表会で弾いた曲はドビュッシーの「月の光」という曲でした。
バイエル嫌々やって、中学生でブルグミュラーを始めた私ですが、よくドビュッシーまで来られたなと思いました。
当時、家族は何も言ってくれませんでしたが、つい最近「ドビュッシー弾いてたもんね。」と言われました。少しは頑張ってると思ってくれていたのかもしれません。
「月の光」は大好きでたくさん練習しました。
決してうまくは弾けませんでしたが、下手なりに納得いくまで練習して発表会に臨みました。
何も緊張せず、感動しなかった個人教室の発表会とは違いました。
ちゃんと緊張したし、感動しました。
その理由が、最後の発表会ということプラス、弾いたグランドピアノにありました。
最後の発表会で弾いたグランドピアノ
最後の発表会で使ったホールには、お高いグランドピアノがありました。
当時は「あのピアノは高いんだ」という下世話な話しか聞きませんでしたが(おそらく高いことしか周りも知らなかった)、その後自分で調べて驚きました。
高級グランドピアノで有名なピアノでした。
発表会では当然グランドピアノを弾きます。
個人教室の発表会でも、個人レッスンの発表会でもグランドピアノを弾いてきました。発表会前になると、ヤマハ教室にあるグランドピアノで練習させてもらいました。
何度かグランドピアノで演奏していますが、それまで弾いたグランドピアノと感覚が全然違いました。
自分の演奏が、輝くようなキラキラして見えて、ピアノが弾かせてくれる感覚がありました。弾いていて気持ち良いという不思議な体験をしました。
もちろん、聞いている人には伝わっていないと思います(笑)。
でも、袖で見ていた先生はウルウルしていました。きっといつもの私の演奏とは違っていたのを、先生はわかってくれたのだと思います。
とても貴重な体験でした。最後の発表会でそんな体験ができてうれしかったです。
つらいことも多いピアノレッスンでしたが、それまで頑張ってきてよかったなと思えた瞬間でもありました。
レッスンした曲
ブルグミュラーからはじまったヤマハの個人レッスン。
高校生になって、ようやく名の知れたピアノ曲をレッスンできるようになりました。
高校生でピアノレッスン受けている子なんて、合唱の伴奏をガツガツやったり、コンクールに出ていたり、将来音楽関係目指している子だったりしていたので、ピアノを習っていることは隠し気味でした。
ピアノ曲は、指のトレーニング的なことをさぼってきてしまったので大変でしたが、ショパンやベートーヴェン、モーツァルトなどCDで聞いていた曲をレッスンできるのは、嬉しかったし、楽しくもありました。
高校卒業前に、最後にレッスンしていた曲は、ランゲ「花の歌」でした。
「月の光」もそうですが、よくここまできたなと思います。
教わった先生方
最後の発表会の直前に、それまで3年程教えてもらっていた先生から新しい先生に変わりました。
発表会前だったので前任の先生から心配されましたが、もう高校3年で私自身もレッスンから離れると自覚していたので、動揺もせず新しい先生とレッスンできました。
前任の先生が心配していたことは、「教え方が変わる」ということでした。
先生が違うんだから当たり前だろうと思っていましたが、新しい先生に変わってわかりました。
新しい先生は、個人教室で習っていた先生に近い感じでした。
個人教室をやめて6年近く経っていましたが、直感的に思い出すものですね(笑)。
自分が辞めるまで3ヶ月程度と期限がわかっていましたので特に何も思いませんでしたが、きっと半年から1年くらい長くレッスンしていたら、新しい先生と合わない部分が出てきたかもしれません。
ヤマハ個人レッスン6年間で、習った先生は3名です。
3人目の先生は、前述の先生です。
前任2名の先生は、地元のオーケストラに所属されている先生でした。
ピアノの先生なのに、オーケストラの団員です。意外…ですよね。あるあるなのか?
中学生の頃は吹奏楽部で、音楽も好きだったので、先生がオーケストラに入っているということを聞いてかなり興奮しました。
ピアノの発表会で先生が担当の楽器を演奏してくれたこともあります。
また、先生の提案で私が吹奏楽で担当していた楽器の発表をピアノの発表会のプログラムに入れてくれたこともありました。
田舎の弱小吹奏楽部は夏のコンクールくらいしか発表の機会がありません。まして個人の演奏を発表する機会なんて全くありませんので、すごく貴重な体験でした。
個人レッスンの緊張感は最後まで慣れませんでしたが、6年も継続できたのは、私は担当してくれた先生に恵まれたんだろうなと思います。
そういう意味でも、ヤマハには感謝しかありません。
結果、ヤマハ贔屓が確立されました(笑)。
自分のピアノ歴をふりかえって
小学校のクラスでピアノを習っている子が弾いている曲は、どれも美しくて綺麗な曲ばかりでした。「エリーゼのために」や「乙女の祈り」辺りです。
「乙女の祈り」を颯爽と弾いている子がいたのですが、憧れました。
当然、当時はレッスンでできるはずもなく、自力で暗譜に挑戦してみましたが、そもそも手が小さくてオクターブが届かないという欠点も見つけました。
結局、ピアノ曲をレッスンできるようになっても「乙女の祈り」はやりませんでした。今でも「乙女の祈り」を聞くと、この時の憧れと悔しい気持ちが入り混じった複雑な気持ちになります。
ヤマハのグループレッスンを通して合奏することが好きだと気づき、自分だけで合奏が楽しめるエレクトーンを専攻したいと思うものの、なんだかんだピアノ専攻になり、個人レッスンを受けることになり、強弱のつけられない電子ピアノで高校3年まで習っていた。それが私のピアノ歴です。
5歳でヤマハ幼児科からはじめて18歳でヤマハ個人レッスンを終えるまで、約12年。辞める方法を知らなかったというか、親に辞めたいということを言っちゃいけないと思っていたという理由もありますが、よく続いたなと思います。
個人教室のレッスンは、本当に嫌だったし、つらかった。でもそのおかげで友達との関係も構築できて、転校後の学校生活を乗り切れたと言っても過言ではありません。
そして、個人レッスンを受けていたから、ピアノ曲やクラシック音楽に興味を持つようになり、クラシック以外のジャンルの音楽にも興味を持つことになりました。
レッスンは嫌だけど、ピアノは嫌いではなかった。
時間があれば、弾いていたし、弾き始めたら何時間も弾いていることもありました。
私にとって、ピアノという習い事はピアノを弾く技術を磨く事ではなくて、音楽の楽しさを教えてくれた生活の支えの1つであったかもしれません。
ま、それに気づくのはずーーーっと後です。
今は自分の子どもがヤマハの幼児科に通うという状況になり、自分の経験を振り返ってみて、ようやく気持ちの整理がついたかなという程度です。
自分で思っていた以上に根深い闇が見つかりました(笑)。
私のようにここまで苦労して続けて欲しいとは思いませんが、やはり長く続けていて見えてくるものはあります。
子どもたちもずっと続けてもいいかなと自分から思えるようなものに出会って欲しいなと少しばかり思う今日この頃です。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この記事の前の話はこちらです。
ちょっと暗い話です。
こんな話もあります。